生きるという事

2020年3月30日 (月)

~日後に死ぬ

おはようございます。

先週書いた、お客様社主回想録の話の続きです。

 

その中に、こんな話がありました:

昼に一緒に会食をし、夜もまあ会う約束をした販売パートナーのM氏。

昼の会食後に得意先に出向き、その途中自動車を降りたところで脳出血で急逝。

43歳の若さで…

その昼の会食でこんなことをおっしゃっていたそうです(要約):

「今まで頑張って仕事をしてきたが、大した利益は残っていない」

「自分に万一のことがっても、家族の生活は維持できるだろうが、会社は持たない」

「万一自分に何かあった時はよろしく頼む」

と。

何といっても43歳ですから、その時は

「冗談」で済ませたそうです。

ところが、後から聞くとそれと同様のことを前夜奥様にも話をされていたと。

 

実は同じような事を、私も去年から今年にかけて2人(共に40歳台)経験しました。

突然の脳疾患。

どちらも大切な友人でありパートナーで、今でも悲しみは癒えません。

2人が死の直前にしていたこと:

  • 突然昔の仲間に連絡を取って、数年ぶりに会っていた。
  • 本来自分のやりたかった多くの事を、唐突にSNS上で表明する。
  • 日記のような形で、自分の先行きが長くないと匂わせる。
  • いつもと同じ普通のことをしているだけなのに、深く感謝をする。

など、

残されたご家族にお聞きしてもやはり

「自分が長く生きられないことを知っていたのかも」

と思われるような、いつもと違う言動が有ったとも聞きます。

その上で読まさせていただいた今回の回想録。

何となく経験した2つの事が、つながって自分が浮遊するような不思議な感覚に襲われました。

 

また、こんなニュースにも接しました。

2016年にワシントン大学で研究発表で、人の体には体が死んでから活動しだす遺伝子があると。

人間は自分の体の事すら、ほんの一部しか知っていないのかもしれません。

 

このブログで考察させていただいているように、体とは命の表現手段。道具だと思っています。

それは各自にとって唯一の物であり、だからこそもちろん大切。

でも体がある事=命の躍動では無いんですよね。

 

命の躍動とは、例えば人の役に立って感謝される事。

最近の朝の風景、ドラッグストアに並んでいる年配の方も

もしかしたら自分で使う為ではなく、お孫さんの為に並んでいるのかもしれません。

まだまだ寒い朝もありますが、そう思えば力も湧いてくるのも分かる気がします。

 

写真ですが、この時期「力が湧いてくる」景色。

船橋方面に車を走らせていましたが、大渋滞にはまってしまい横道にそれると:

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全く予期していなかった、息を飲む美しい光景が広がりました。(実際はこの写真の数倍の長さ)

渋滞に耐えたご褒美でしょうか。

天国に一番近い景色かもしれません。

(あとで調べたら、木下街道から二和病院へ向かう街道沿いという事です)

今日も読んで下さりありがとうございました。

2020年3月16日 (月)

歴史について考える

おはようございます。

肺炎騒動は、さらに大きくなっており世界的に経済が停滞してきています。

終息が見えない状況では、経済的被害はどんどん大きくなり着地点すら見えません。

この状況:

主に中国からの流通の遮断による、部品不足による工場停止

学校活動の停止

食料(マスク)危機

国際的人的移動の制限…

経済においては悪い意味で「リーマン級」と表現することがありますが、

このまま状況が悪化すれば、もしかしたら「(準)世界大戦級」とも言えるかもしれません。

病気で亡くなる人と同時に、経済的恐慌が原因の死者も増えてしまいますから。

 

ここで分析しても仕方ないですね。

今日は歴史について書きます。

歴史学という場合、いろいろな資料や遺跡などを分析し根拠ある歴史を現出させようとします。

でも今回いう「歴史」は、それではなくまさに我々の存在、記憶に基づく歴史です。

我々が名乗っている苗字、家庭の雰囲気、両親や親戚の存在。

無意識かもしれませんが、それは全て体に刻み込まれています。

僕の好きなTV番組、「ファミリーヒストリー」では、思いもかけない先祖の苦労や苦難を知り、

先祖の偉大さに恥じない様に生きようと涙したり、決意を新たにしたりします。

その時に何とも言えないエネルギーが、その方の体に入っていくのを感じます。

その作用こそが「歴史」の力です。

 

日本は戦後の社会的システムの変更で、家族の在り方が根底から崩れてしまい、

この「歴史」を失ってしまいました。

歴史とは「一族の誇り」と言い換えても良いです。

皆それぞれに歴史を背負って生きているのに、それを知らずに生活をしてしまう。

人としての「誇り」や「筋」を見いだせないままに。

それでは困難にぶつかった時に、腹の底からの力が出ません。

 

少し前までは、その代わりになる存在が会社でした。

立派な事業をしている会社で「課長」になると課長らしく振舞う。

「部長」になれば、だれがどう見ても堂々として立派な人であった。

それは服装や髪形だけではなく、外からのエネルギー(社会的に重要な役割を果たすという誇り)が

そうさせていたのです。

ところが現在、金銭至上主義に染まった人々は、会社の役職からそこまでのエネルギーを受け取ることが

難しくなってしまいました。

 

この状況は目標を失って、呆然としているかのように見えます。

そんな時に起きたのが、今回の肺炎騒動。

戦後先輩たちが作ってきたシステムが曲がり角に来ている。角を曲がるまでは先が見通せず暗いです。

今はその苦しみの時ではないでしょうか。

 

自分が今存在するという事は、その歴史は古事記や日本書紀ともダイレクトにつながっている。

全員必ずそうです。

1300年前に書かれたそれらの書は、その時点で皆の記憶に残る事柄が書かれています。

歴史にうそも本当もなく、書く人々が書き残したいと思うほど印象深いことが残っているのです。

歴史とは記憶だからです。

そして歴史とは与えられるものではなく、勝ち取るものです。

勝ち取るとはいっても、相手を倒すのではなくて自分の弱い心に勝つ!

日々の報道に右顧左眄せず、日々の役割を果たしていきましょう!

 

週末は東京で桜の開花も宣言されたので、ほころびを探しに行こうと思ったところ

天候はまさかの雪!

外に出るとこんな写真を撮れました。

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きれいな黄色に白と緑のカーペット。

初めて見る景色でした。

得した気分です!こんな風に与えられるものは気分が良いです。

今日も読んで下さりありがとうございました。

2020年3月 9日 (月)

命の重さを何で測るか

おはようございます。

先週書いたブログコメント欄に、大変大切な問いかけをしていただきました。

コメントへの返信はさせていただいたのですが、

復習の意味も兼ねてさらに深めたいと思います。

 

質問の前段で書いていただいた、かつての風邪への対応と今の違い:

かつて妹が住んでいたイギリスでは、基本医療費が無料でした。

大人でも薬代のみの負担でOK。

しかしこれには裏があります。

まず最初のアプローチが「電話」。

そこで一般的な「風邪」症状だと判断されれば

「暖かくして寝てくださいね」

で終わり。

決して日本のように抗生物質は出しません。

抗生物質に慣れてしまう怖さを社会が共有しているのかもしれません。

それでも病院に行きたければ、一週間や10日後の日時を指定されます。

(結果、軽い風邪では病院に行かなくなります)

妹は出産もイギリスでしたのですが、日本と比べると唖然とするような質素な対応。

出産は病気ではありませんので、生まれたらすぐ退院。

2人目の時は、子供に先天性の障害が疑われました(結果は問題なし)が、

無料の公立病院では「陽性(悪い)」

検査体制のレベルの低さや熱意の無さを感じたのか、

妹は大変おカネの掛かる、私立の病院でも検査を繰り返しました。

その結果「陰性だろう」「問題ないよ」となり無事出産。

なぜ検査を繰り返したかと言うと、イギリスでは先天性障害の子はほぼ堕胎するからです。

外国の良い一面だけを見て日本を否定する論調が目立ちますが、やめた方が良いというのが、

この様な実地の話を聞くと実感します。

このイギリスの医療現場の話はちょっと特殊かもしれませんが、

かつては日本でも大人は風邪では病院に行かず、各家庭に伝わる伝統的な治療法で直したのではいでしょうか。

 

そして、もう一ついただいた大切な問いかけ「命の重さ」です。

人間は、他の生物を食べることで生きる、という基本的に背負っている罪があります。

いつも書いている「体」の命の維持です。

コメント欄に返答を書かせていただいたので、今回はそれには触れずに行きます。

「魂」としてみた場合、その重さは

「他者にどれだけ必要とされているか」

でわかると思います。

人が一生のうちにかかわれる人は、その数の違いはあったとしてもとても限られています。

この状態を考えたときに

「人生はずっと学校(にいる)」

と考えてはどうでしょうか?

学校で、毎年ワクワクしたり不安になる年度枚の「クラス替え」。

社会人でいえば、会社内で担当が変わったり、部所が変わったり。

転校生が入ってくるのも、新入生や途中入社の社員と一緒ですね。

学級委員を選ぶのも、組合の責任者を選ぶんだり、新プロジェクトの責任者を選ぶのと似ていますね。

学校ではもちろん「勉強」をしますが、それは社会人でも一緒です。

こう考えると、学校で出来ないことは社会人になってもできないと気づかされます。

ただ一つ違うのは、大人は社会に対する「責任」があるという事です。

もちろん子供だって、学校に行くという責任はありますが多くの場合その対象は「親」に限られます。

そしてその責任は放棄しても逃げ場があるかもしれませんが、

大人は責任を放棄すれば社会に必要とされず、居場所を作れなくなってしまう事が殆どです。

 

大人も子供も、日々使う言葉、他者に対する行動が将来の自分の人生に、

「全て」「直接」

つながっている事を忘れてはいけません。

その意味で、一時的な「ラッキー」「タナボタの得」はむしろ害になる可能性すらあります。

自分の生きる姿勢、それを身につけることを大人と言い、それが極まっていく姿を人は

「格好良い生き方をしている人」

と呼びます。

全ての人には、役割がある。

それに気づき、頑張って研鑽すれば、皆がそこに到達できると信じたいです。

それができる社会、そんな人が多い社会を

「良い社会」

と呼ぶからです。

コメントをいただいたおかげで、とても大切な考察をすることが出来ました。

「金型屋の営業」様。いつもありがとうございます!

 

写真ですが、先週は旧暦の初午お祝いをしました。

まずは屋上でお参り:

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雨の予報でしたが、この時だけ奇跡的に止んでいました。感謝です。

そして夜は皆で会食。

今年も近所のうを徳さんに素晴らしいちらし寿司を作っていただきました:

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今年目玉は左側の巨大ボタンエビ!

後でお聞きしたら、普段なら仕入れ値で一匹2千円近くするとか…

肺炎騒動の影響で安かったそうですが(それでも千円は軽くオーバー)、

外食産業への肺炎影響は甚大だと気づかされます。

 

今日も読んで下さりありがとうございました。質問もお待ちしています!

 

2020年2月10日 (月)

祈り

おはようございます。

中国初の肺炎蔓延、経済的なダメージもじわじわと出てきているように感じます。

クルーズ船の混乱は、船の旅が好き(伊豆七島ですが)なので想像できます。

船は揺れることを踏まえて、手すりが部屋を出てから例えばレストランまでずっと続きます。

年配者であれば、揺れが無くてもそれに頼るのは自然な事ですからあっという間に広がってしまいます。

 

ダメージについて、当事者の具体的な話をお聞きしました:

先週は中部地方の機械メーカー社長と久しぶりに会食。

社長がおっしゃるには、完成した複雑な機械を中国の客先に輸出するのには出荷前研修が必要。

しかし客先の中国人は出国できずに、研修が開ける見通しが立たないと。

研修をしなければ出荷できず、検収も上がらない(入金されない)と

頭を抱えていました。

同じような状況はこれからますます増えていきそうです。

実態が分からない中、出来ることは今日の題に書いた

「祈り」

しかないような気もしてきます。

 

今日は「祈り」を会社内の役割として切り取ります:

会社内の役職表記は、各社それぞれで分かりにくいことも多いです。

特にカタカナやローマ字表記はわからないですよね。

でも本質は一緒で、役職が上がれば上がる程

「祈る」

事が大切になります。

学校を卒業して新入社員として入った場合、まず「祈り」などないです。

日々仕事に必要とされる知識の習得に努め、先輩の指導に従う日々。

それを繰り返すうちに、なんとなく「型」のようなものが身につき、

新規の顧客対応や開発担当をできるようになる。

ほとんどの場合最初は上手く行きませんが、失敗を繰り返すことにより「様」になってきます。

すると成果を出せるようになり、自信がついて評定や態度にも余裕が出てきます。

しばらくすると逆に担当する新人がつくようになり、仕事のやり方を教えるようになるでしょう。

さて、ここまではほとんど「祈り」の要素がありません。

必要になるのはその先です。

カタカタ言葉では

プレーヤーからマネージャーへ。

日本語では何ていうのか…

担当者から管理者へでしょうか。

一般的に、マネージャー(課長)になると自分の担当する、守るべき組織ができます。

マネージャー(課長)とはその組織を自分の体として思い、動いてもらうことにより成果を上げます。

マネージャーになっても

「自分でやった方が早いから」

と、営業に行ったり設計したりしてしまえば、部下が育ちませんし、

責任者としての自分の仕事=目配りがおろそかになってしまいます。

出来る限りの指導をしていったん動き出した後は、片眼をつむって良いところだけを見る。

その時に必要になるのが「祈り」です。

祈るしかないのです。

この転換が「言うは易き行うは難し」でなかなかうまくいかないです。

 

企業における事業承継が、税制面はもちろん人材面でも大きな問題になっていますが、

人材面の評価基準がとても重要です。

それは経営学ではなく、やはり祈りの力ではないでしょうか。

代々経営を引き継いでいる、もしくはこれからも経営を継続反映させる会社の創業社長と、

社員幹部、役員、社員出身社長、二代目社長…に差があるとすれば、

それは表面的な能力差ではなくこの差かもしれません。

創業者は、祈ることがルーチンワークになっています。

それは上にあげたマネージャー(課長)のレベルとは全く異なる全人格をかけた「祈り」です。

気づいたら周りに誰もいない恐怖に打ち勝って、決断し続ける。

机上の知識も参考程度には役立ちますが、最後に必要なのは人間としての力です。

 

身近なところでこの「祈り」を圧倒的に体現しているのが、母の子に対する祈りです。

母はいつでも子が安全に育つことを思うのはもちろん、

時には命すら投げ出す覚悟ができていますから。

どんなに立派な社長でもそれには敵わないかもしれません。

男は大きな責任を負い、長年かかってやっとその境地に到達する。

そう考えると、どんな状況になろうと挫折しないで頑張らなければいけませんね!

 

先週は今年初めて、氷点下の朝でした。

メダカたちの住み家もこの通り:

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氷の厚さは、人が乗っても割れないほどに。

でも同時に春の息吹も:

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張り詰めた氷と、花のほころびの対比。

祈りを超越した、自然の摂理に圧倒されます。

今日も読んで下さりありがとうございました。

 

2019年12月16日 (月)

どう生きるかをどう学ぶか

おはようございます。

先週は友人に看取りについて大変重要な学びを頂きました。

今日はそこに至る道、生き方をどうするかという事を考えます。

 

まず目の前にある状況を受け入れ、前向きに生きることが大切です。

状況を受け入れらないとしても、もしそれがどうしても変えられないのであれば

受け入れる努力をするしかありません。

それは時としてとても厳しい道となりますが、

その「輪」から抜け出すことは、体の命が限られた一生の中ではより大きな苦労を背負う事が多いです。

大変な覚悟と行動力が必要になります。

目の前のことに集中していると、多忙な現代社会では自分のことを客観的に

考える時間がなかなか持てないと思います。

でもそれで良いのです、

与えられた事に集中できるというのは人の生き方として素晴らしい姿なのですから。

 

それでも自分を変えたいと思い、新しい学びを欲しますよね。

そんな時は先人の書いた良い書を徹底的に読み込むことです。

このブログに書いている事も、その週に自分の考えたことを書いているつもりでも、

すべて先人のおっしゃっている事をアレンジしているだけとも言えます。

実は人がより良く生きる真理は古今東西あまり変わりはなく、よりよく生きるとは

どうやってそれを自分のモノにするかという一瞬のひらめき(気づき)が大切なのです。

 

長い人間の歴史からすれば、この100年の科学の進歩など実はたいした意味が無いという前提

に立ってみると、多くの事が見えてきます。

もともと自然が完璧なバランスを持っていたからこそ、地球は命をつないできました。

科学が進歩したと言っても樹木一本、人は作れませんし

その木から落ちた葉っぱを完璧に土に還元して肥料に変える菌を作り出すこともできません。

現代科学で便利になったと言ってもも、人の本質は何千年も変わらないのかもしれません。

縁あってこのブログを読んで下さっている方が、

何らかの気づきを得ることは私にとって何よりの励みになります。

たとえ書いている内容が、自分(書いている私)も出来ていない事ばかりで

誰かの考えのアレンジに過ぎないと思われようとも。

 

そんな事を気にしている暇がないほど、人の体の寿命は短いからです。

成長期を終えた体は、日々老いて行きます。

焦る必要はありませんが、事実は認めなければいけません。

ここに書いている事に反発される方ももちろんいらっしゃると思います。

でもここに定期的に来てくださるという「輪」は大切にしなければいけないと考えています。

輪の中にいて下さる限り、付かず離れず円環運動をして

少しの気づきが大きく人生を変える可能性がありますから。

情報洪水の現代社会では、気づきを得られるチャンスが本当に減っています。

 

もし自分の体の命が尽きたら、

ここに書いてあるようなことを誰かが受け継ぎまた新しい輪を作ってくれれば、

意思は引き継がれ=命も尽きないとも言えます。

そしていつか人類が成長し、自他利益同一の大きな「輪」に入ることが出来れば

皆が本来の人間らしい生活に気づくと思います。

命とは、他者に貢献してより良い社会を作るために与えられているものですから。

 

先週末は会社忘年会で、ビンゴ大会もあり楽しかったのですが、

写真を撮り忘れました。

代わりに東京の不思議な光景を:

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札幌の様ですが、看板に東京乗馬倶楽部とありますね。

紅葉がきれいでした!

さてどこでしょう:

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馬場に行ってみました。ちょうど厩舎に入ったところで、馬の写真は撮れず…

その先に見覚えのある建物がありますね。

ここは新宿の隣、代々木(参宮橋)です。

都心にこんな場所があったことを今まで知りませんでした。

明治神宮に隣接している場所ですが、本当に気持ち良い空気が流れています。

一歩外に出ると、新しい発見があります。

今日も読んでくださりありがとうございました。

2019年12月 9日 (月)

命を看取るという事

おはようございます。

ここのところ、命に関する少し重い話を続けていますが、

先週は医療系のセミナーで大切な学びを頂きましたので

皆様と共有させてください。

 

少し前に、医療もAIに置き換わっていくと書きましたが、今日の話はその逆をいくものです。

偏差値トップの人が目指すべき仕事が「医療従事者」だとすれば、

まさしくAIにとってかわられるでしょうが、

今日書くのは感じる力、共感する力。そして祈る力の大切さです。

 

セミナーの趣旨は「誰もが取り残されることのない医療」

日本は国民皆保険が実現されていますので、その意味では取り残されることは無いはずですが、

現実には社会から切り離されて、病院のベッドの上で寂しくなくなっていく事が増えています。

命を何に使いきるかという事の最後に、どうやって命を終わるのか?という課題が残ります。

ではどの様に考えればよいか?

 

基調講演をされた、友人でもあるT医師の話から:

 

  • 年を重ねていく事を、地域で祝う事がなくなった社会。長寿は良い事という基礎が必要。

 

(私の考察:以下同じ)

長生きが良い事でないと、地域医療は成立しない。これは重い話です。

特に都市部においては、定年退職=社会からの切り離しの様な生活になってしまう男性が多いです。

もともと、定年というのは「サラリーマン」という特権階級における制度だったはずで、

多くの人は他者に役立つ何らかの技を身につけることで生きていましたので、

「定年」などという概念は無かったのです。

 

(T医師)

  • 沖縄は年寄りが少ない、悲惨な地上戦を経験した沖縄だけの現象。これから急激に老人人口が増える。
  • 沖縄だけのとても難しい状況。
  • 1951年まで、病院設立は禁止されていた。沖縄全体で医師が64人しか生き残らなかったから。
  • 現在の沖縄の高齢者は、戦争という歴史の中で慎重に生きてきた。

 

(私)

これらの話は、沖縄で実際に医療にかかわっている方から教えていただかなければわからない事です。

テレビや新聞で報道される沖縄は、あまりに極端で沖縄の現地の人の暮らしぶりとは乖離しているのかも

知れないと強く感じます。

沖縄の方は慎重に生きているというのは、自分の想像力では到達し得ない深い示唆でした。

 

(T医師)

  • 治癒の見込みのない、高齢の女性が最後を家で迎えたいという話になった。
  • 独身で子供もなく、他に頼る人はいなかった。
  • T医師は病院の仲間とおばあさんを自宅に送り、対策を考えた。
  • 近所の人を訪ねると、幸い皆協力してくれることになった。
  • 朝、窓を開けて空気を入れ替える人。
  • 夜、戸締りをする人。
  • 見守りという役をこなしつつ、楽しい酒盛りをしだす男たち。
  • 医師からの定期的な指示は、玄関の柱にテープを貼ってそこにマジックで書きこんだ。
  • そうすることで誰もが最新の注意事項を見逃さなかった。
  • 結果おばあさんは安らかに自宅で最期を迎えられた。

 

(私)

沖縄独特の助け合い文化と片付けてしまいそうであるが、会社のある墨田区でも長屋文化として

長く同じような状況があったはずです。

近年の急激な社会変化は主に経済発展が原動力であったが、

我々はそのかわり大切な文化を失ってしまったという事を深く実感する話であった。

 

T医師の結語:

地域医療とは、地域の一体化(役所、病院、周辺住民、ケアマネージャー…)が無いと成立しない。

 

私の感想:

現代社会においては、人間同士が協力し合う「付き合い」が少なくなり、各自ばらばらの砂粒の様な

社会になっているのを実感する。

人は何のために体の命を使い、困った時にはどうすれば良いのか、そして最後をどう看取られるのか。

本当に具合が悪く、かつ孤独な状態にある人はまず病院に行く事すらできません。

また通院できたとしても、退院後にどう生活するかという見守り体制の構築が無ければ、

また同じことの繰り返しになってしまいがちです。

生きるための実地の哲学や宗教的考えが必要だと痛感する場であった。

写真ですが、この時期だけのツリー:

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子供の頃から、宗教行事としてではなく年末のお祭りといった感じで街が盛り上がっていく感じ

が好きでしたが、最近は不景気でそんな雰囲気が無くなってしまいました。

正月の商業施設お休みは個人的には賛成ですが、それが不景気ゆえの事だと思うと寂しいです。

今年の年末年始は、静かに色々と見つめなおす時間にするのも良いですね。

今日も読んで下さりありがとうございました。

2019年11月11日 (月)

権威の考察

おはようございます。

昨日の祝賀パレードは、晴天の中多くの人にお祝いされて日本のすばらしさを実感する時間でした。

理屈抜きで人を包み込むエネルギーを感じます。

先週は権威について書きましたが、このエネルギーについて考えることで深めたいと思います。

 

先週剣道の稽古後の食事会で、50年近く稽古を積んでいる大先輩に

「かつての稽古は怖かった、真剣での打ち込みをしているのと同じ気魄を感じた」

「思い切り体をぶつけるように打ってくるので、吹っ飛ばされるのは日常茶飯事」

「少しくらいの擦り傷や打ち身は怪我の内に入らない無かった」

「激しい稽古をしていると、だんだん無心になって行き勝手に体が動くようになる」

そして

「本当に強い人は、剣を合わせなくても相手を退けることが出来た」

これは武道の世界だけではなく、その道を究めた人は皆同じことをおっしゃいます。

座っているだけでその人の技量が分かると。

この目に見えざるものこそ、権威=エネルギーです。

前向きなエネルギーに満ちている人から感じる状態を、威厳と表現します。

 

例えば動物の世界の例を挙げると

身近な犬:

散歩中に向こうから来る犬を観察し、強い犬が来るのを察知すると弱い犬は一瞬ひるんだのち

「ワンワン!」と身の危険から逃れたいと吠え始めます。

吠えられても、強い犬は平然としています。

皆様も経験があると思いますが、体の小さな犬が平然としている事もあります。

犬同士はエネルギーを察知できるのです。

野生のライオン:

ライオンは食べるために仕留めた獲物も、二時間過ぎたら見向きもしません。

動物の王者ライオンはその威厳ある地位を守るため、

他者の「生(せい)」エネルギーを食らって生きているのです。

仕留めてから時間がたってしまうと、エネルギーが弱くなってしまい

王者であるライオンの体を維持するには役に立たなくなります。

そのあとはハイエナや小動物が残ったエネルギーを摂り、最後はハエ、そして菌により骨だけに。

ライオンには、科学的に数値化される栄養素とは違うエネルギーが見えているのです。

ライオンは、獲物の隣に「から揚げ」があっても見向きもしないでしょう。

 

我々も体は問題なく、たっぷり栄養を採っていのに、何だか元気がない。

それはエネルギー不足かもしれません。

サプリに頼り切っていると元気がなくなり、新鮮な肉や魚を食べると元気になる。

新鮮な野菜や果物は生き続けており、やはりエネルギーに満ちています。

だから病人はリンゴをそのまま食べるのではなく、

摺り下ろしてエネルギーを減らして(消化できるように)栄養を摂ろとします。

もし体が衰弱し、死の床についている老人の口に新鮮な刺身を入れたとすれば…

それは命を脅かす毒物になってしまいます。

 

野生動物は、人間が見えなくなったそのエネルギーのやり取りを日々繰り返して生きています。

王者であるライオンも、生きるために獲物をしとめるだけで、決して無意味な殺し合いはしません。

場をわきまえています。

互いのエネルギーを感じながら、共存共栄。

ライオンが王者であるからこそ、野生の場の秩序が保たれている。

秩序が崩れた無秩序状態では、結局皆が不幸になってしまう事を本能的に知っているのです。

 

先に書いた武道の話では、毎年奉納演武が行われる明治神宮や鹿島神宮は厳か且つ清冽な力を感じます。

最近はパワースポット巡り、そして御朱印帳の記帳が趣味な人もとても多く

現代人も金銭至上主義の呪縛を解かれ、

本能的に欲しているものに従って行動し始めているのかもしれません。

でも、パワースポットに行くより毎日できる大切なことがあります。

それは、

大地からエネルギーをもらうように歩く。

そうすると日々同じ道を歩いていても、空気の微妙な違いを感じ取れるようになり、

危機を察知する能力も磨かれます。

気づく力が身に着くのです。

周りに気が配れるようになることは、ペーパーテストで高得点を取るよりはるかに大切な事です。

その基本が大地を踏みしめ、まっすぐ歩くこと。

現代人はそれが出来なくなっており、またそれが原因ですぐに体調を悪くします。

真剣を持って対峙している時に相手を忘れてうつむいていたら…あっと言う間にやられてしまいます。

スマホの画面からの情報、スマホのナビの画面よりも大切な、

人生を良く生きるためのナビ(情報や生きるための気づき)を、

大地のエネルギーを感じながらまっすぐ歩くことで得ましょう。

そしてそのエネルギーで体内を満たし、前向きに生きる。

するとお金では買えない権威を身につけることが出来ます。

 

写真ですが、神宮第二球場(ゴルフ練習場)です:

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11/3に息子の通う高校の秋季野球大会があり、久しぶりに妻とこの球場に行ったのですが

まさかの大行列で入れず。

3塁側のネット越しに野球を見ているところです。

スマホだと前のネットに焦点が合ってしまうのでこんな画像になりますが、実際はもう少しだけ見えます。

行列の理由が、この日が野球場としては最終日だったからだそうです。

それは混みますよね。バックネット裏にしか席が無いので、5,000人くらいしか入れませんし。

この場所は自分が高校時代にも応援に行きましたが、ゴルフスクールにも通った思い出があります。

場所柄いろいろな人が通っており、良い思い出が多いです。

夜のレッスンが終わって、絵画館前を通って信濃町駅に歩いていく。

都会とは思えない静寂の時がありました。

高校野球は、毎日の練習成果を試合の一打席、一投という今の一瞬に爆発させる。

それによってさまざまな未来が紡ぎ出される。砂時計の様に。

神宮第二球場はそれを発揮する貴重な場所でした、有り難いです。

来年以降、この場所にラグビー場が移り、ラグビー場に新球場、

今の神宮(第一)球場は多目的広場や施設ができるそうです。

10年もすれば、神宮に「第二」球場が有ったんだよと語る事になりますね。

今日も読んで下さりありがとうございました。

2019年10月21日 (月)

美味しい蕎麦の打ち方

おはようございます。

 

昨日、Wカップ日本戦後半は南アフリカに押し切られ、完敗でした。

大会前からベスト8が目標がチーム目標だったので、目標達成素晴らしいと思います。

事前に、インビクタス/負けざる者たちという南アフリカラグビー代表チームの

映画を見ていたせいもあり、その歴史的背景も含め圧倒されました。

優勝は目指さなければ決して成し遂げられない。

魂のぶつかり合いの現場では、少しの差が圧倒的な差につながるのでしょう。

勝ち残った4チームが優勝を目指すこれからの試合は、きっと日本人を感動させるでしょう。

 

ここのところ仕事について書いていますが、

今日は身近で体験した出来事から考察します。

埼玉のお客様に行く際、その近くにあるお蕎麦屋さんに行くことを楽しみにしていました。

建物も古い平屋の民家を改装したもので趣があり、

立派な床の間や床柱がある大きな和室で蕎麦を頂く。

田舎の親戚に家に行ったかのような心安らぐ空間でした。

自宅からは車で一時間位かかりますが、家族にも食べさせたくて皆で行く事も。

それほど美味しい蕎麦でした。

 

その日もいつものように会社の先輩と、営業前の腹ごしらえにそのお店に。

蕎麦をつゆにつけて一口すすると…二人同時に

「何か変わりましたね」

と。今まで何度も通っているので、すぐに気づきました。

日本蕎麦、しかももり蕎麦という最もシンプルな食事。

味はほとんどつけ汁の味と言っても良いのに、2人が違うと思ったのは蕎麦自体です。

その時はそんなこともあるのか、もしくは気のせいだと思い時間をおいて再度訪問。

ここで確信しました。

「全然違うそばになっている」と。

その後、先代が亡くなり息子さんに代替わりしたと知りました。

使っているそば粉、水、道具、そして基本的手順はきっと同じでしょう。

親子ですから体格や性格も似通っていると思います。

それなのに味が全然違う。

そばに対する気持ちのコメ方が違うとしか言いようがないです。

 

同様な事は、一見シンプルに見える寿司にも言えます。

ネタやシャリが全く一緒でも、握る人の気持ちの込め方で全く味が違います。

もちろん、蕎麦にも寿司にも

「作る技術」

というのはあると思います。でも数値化できる技術であれば、最新鋭の機械で再現できるはずです。

事実工業製品の世界では、職人技をどんどん機械化していますから。

でも味覚という非常に繊細で高度な領域にそれは通じない様です。

食事を味わうというのは、五感、六感をフル稼働させているからです。

上の話とは逆に、同じ人が作った全く同じ料理でも食べる状況で全然味が違います。

  • 高級すしでも緊張する接待の場で食べると、ほとんど味に感想が残らない。
  • 台風の中家族が互いを気遣いながら、身を寄せ合って食べるカップラーメンは美味しい。
  • 楽しい席での酒は、笑う事で消化されるのか次の日に残りにくい…

本物の料理人とは、全知全能をかけて客をもてなすすごい仕事だと気づかされます。

その意味で多くの男が、母の作る家庭料理を一番好きな料理にあげるのも納得です。

 

これは食事に限らずどんな仕事でも同じことがいえると思います。

部品を作るのであれば、それを使う人の気持ちを想像しどれだけ寄り添えるか。

洗濯をするのであれば、開封したときに気持ちの良くなるように気持ちを込めて梱包する。

あらゆる接客業では、その日のお客様の雰囲気を瞬時に察知し最適なサービスを臨機応変に提供する。

 

今の学校の偏差値教育ではこの能力は身につけづらく、数値化もできませんが、

どれだけ良き友人と付き合っているかと言うのはその指標になると思います。

付き合うというのは、スマホの画面を通じたものではなくスポーツや語り合いを通じて。

そして時には互いに悔しい思いをしたり、コンプレックスを感じたりしながら

それをばねにして高め合う。それは「いじめ」「パワハラ」とは全く異質のものです。

人の成長には、正しい事ばかり教えるのではなく、時には「負」の感情を知る事も大切です。

「負」=悔しい思いやコンプレックス

があるから、それを学び克服することで強くなれる。

そして気づくと、以前はあれほど悔しいと思っていたことが全く気にならないばかりか、

その時の「負」の感情に感謝できるようになる。

「負」があるから「正」があるからです。

「負」無き「正」は根っこが無いからすぐに挫折して、その思いを他者の責任に転嫁してしまいます。

子供たちは周りにいる立派な大人に聞いてみてください。

きっと誰もがそんな「負」を前向きなパワーに変えているはずです。

そして気づくはずです、

前向きな大きなエネルギーを発している人ほど、非常につらい「負」を背負い克服していると。

それが人の「魅力」を作り上げているのです。

 

ただしここで大前提があります、世の中は平和でなければいけません。

戦争と言う憎しみの連鎖の中では、人の魂の成長がいびつになってしまうからです。

来週はこのことについて考えます。

ちなみに最初に書いた蕎麦屋さんは、現在は閉店し立派な日本家屋も跡形もなくなって

アパートに変わってしまっています。

きっと多くの人が喪失感でショックを受けていると思いますが、

伝統を引き継ぐとはそれほど責任が重く、かつ難しいものだと実感します。

美味しい蕎麦を打つには、全身全霊で取り組まないと成しえないのですね。

写真ですが、今年もやっと金木犀(きんもくせい)が咲きました

この毎年の色と香りの演出は芸術的だと思います:

2019_20191017140901

去年のブログを見ると、10/1には散っており、オレンジ色のじゅうたんとなっていました。

3週間以上の違い。

少し季節がずれてきているのかもしれません。

今日も読んで下さりありがとうございました。

2019年10月14日 (月)

JR常磐線自動運転化へ

おはようございます。

台風19号、各地で大きな爪痕を残し今日現在まだ被害範囲が特定できていません。

金曜日には荒川氾濫の危険を感じ、金型やサーバー、製品をできるだけ高いところにあげていました。

結果的には都市部での荒川氾濫はなく、会社には被害はありませんでした。

報道では千葉方面の心配をしていましたが、今回は台風被害が山側に集中しています。

自然災害の恐怖、特に洪水は人との格闘の歴史があり為政者の最大の仕事と言っても良いものです。

今一度、関東湿地での徳川家康公の仕事について皆で学ぶ時かもしれません。

数十年に一度が毎年起こる昨今、防災計画の見直しが必要です。

今週は防災の観点からも必要な考え方について考察します。

 

先週は、JR常磐線が2020年にも自動運転化試験開始という報道がありました。

少し前にも京急線で悲惨な鉄道事故がありましたが、

個人的には自動運転化していれば防げた可能性もあると考えていました。

過去にも人為的ミスによる、鉄道大事故が周期的に起きている気がします。

先日書いた医療診断のAI化でも触れましたが、確かに自動化によるミスもゼロではないと思いますが

人のミスとの比較になると、優位性があります。

近い将来、「電車の運転手」というのは「改札の切符切り」と同じように

昔の風景になってしまう事は避けられないです。

 

かつての切符切りは、電車で通勤通学する人であれば必ず接した日常でした。

きっちり制服を着て、リズミカルに改札ハサミを鳴らし、

子供の目には誇らしげに仕事をしていて格好良く見えました。

まさかその風景がなくなるとは、当時は全く考えませんでした。

又、最近見なくなった風景は、信号機のLED化により

「信号機の電球交換」

の仕事が全く無くなってしまいました。

この考えを進めると、これから選ぶ仕事とは、

今人気があるから、今儲かっているからという尺度ではなく

機械(AI技術)に出来るか、出来ないかで判断しないといけないかの様です。

 

ただし、ここで気を付けなければいけない事があります。

「機械化、自動化の先にある世界はどうなるのか」

という考察です。

世の中が自動化された機械により動くようになると、

逆に人間の生活が機械の一部の様になってしまいます。

知識はスマホから得て、娯楽もスマホゲーム、人とのつながりもスマホのSNSサービス

体調管理もスマホのデータ、仕事の予定調整もスマホで、報告書もスマホで…

会社に行けばパソコンと向き合って、工場でも機械を動かすための端末操作。

自分で思考して身につけたつもりになってる考え方も、

ほぼスマホ先生が教えてくれたことではないでしょうか。

その教えを真似て、反応しているだけ。

体への命令を自分の脳(使命)ではなく、スマホがしている状況です。

 

医療についての考察では、患者を励ます事が出来る医者が必要と書きましたが、

その他一般的に、AI化されない仕事とは何でしょう。

自分の属しているプレス加工分野でいえば、

誰も作ったことのない金型を設計できる能力。

これは絶対に無くなりませんし、ますます価値が増します。

前例がある加工では、今後おそらく設計すら自動化すると思います。

金型もその自動作成されたデータに基づいて部品を作ってしまう世界。

そして必要なのは、やはり工場や会社同士を繋げる人です。

繋げるとは、AIによるマッチングなどではなく:

他者、他社の気持ちや能力を理解し気持ちよく仕事をする関係を築ける人。

互いを尊重し合い、高め合い、感謝し合い、良い気持ちに出来る人。

ここでも他者を気持ちよくできる「気」という事がキーワードです。

 

色々書きましたが、令和の新橋では、まだこんな光景が残っています

Photo_20191009130401

もちろん靴を磨いているだけにも見えますが、

自分には「気」をやり取りしている風景に見えます。

心を込めて磨き上げる、お客さんもそれに応えて感謝の気持ちを送る。

その気を受けたお客さんも靴だけではなく、何だか気持ちも綺麗になる。

だからこそ何とも言えない暖かい空気がそこに流れる。

現代科学はまだ「気」の流れや量、質を定量化(見える化)できないので、

物事を金銭上の損得でしか判断てしまいがちです。

でも近い将来見えるかすれば…きっと仕事の価値を「気」の面からも

はっきり測ることが出来るでしょう。

金銭はそれに応じる付属物。

 

ここに先ほど書いた

「自動化の先考察」

の答えがあります。

人が人らしい生活をして助け合っていれば、どんな仕事でも輝きます。

仕事は選ぶものではなく、運命に従い、使命感を持って磨き上げて行くものだからです。

我々を産み、育ててくれた母は迷いなくそれをしてくれているのです。

被災からの復興については、物の観点からの復興と共に心の観点の復興が重要です。

心配する:気を配る。

祈願:祈り、願う。

出来ることから一歩ずつ。

 

今週も読んで下さりありがとうございました。

2019年10月 7日 (月)

理想の働き方とは

おはようございます。

先週は「必要な仕事」について書きましたが、結論は職種ではなく

どれだけ他者の魂に寄り添え、必要とされるかという事でした。

どんな仕事でも、それができればロボットにはとってかわられる事はありません。

今週はその時の働き方について考えます。

 

高額当選の宝くじの話がでると、

「当たれば一生遊んで暮らせる」

などと話をすることがあると思います。

もちろん多くの場合は、良く考えないでありえない事として話していると思いますが

ここではちょっと具体的に考えてみます。

 

働かなくても、自分の好きなことだけして「暮らせる」お金があるとします。

さて次は、遊んで暮らせるの「遊び」です。

何をしましょうか。

365日ゲームをする?間違いなく体を壊しますね。もしくはEスポーツの世界に進出?

365日毎日ドライブ?せっかくなら個人タクシーの資格を取って、好きな車に毎日乗った方が良いですね。

365日毎日サーフィン。大会に出ないとつまらないですよね、オリンピックめざしましょう。

おっと、いずれの場合も、毎日できるほどの熱意があれば勝手に賞金や給料を稼ぐ

「プロ」

になってしまいますね(笑)。

それでは遊びとは言えません。

目的や目標無く、余暇を兼ねて、でも真剣に何かをする。これはとても難しいです。

体力と気力が維持できません。

もちろん毎日だらだら無目的に過ごす、これなら可能でしょうがすぐに飽きます。

いずれ体力が落ちて、最後には精神が破綻します。

 

では健全な目標とは何か?

すでに答えを書いてしまっていますが、それは:

「周りから見ると、遊んでいるように仕事をする」

なのかも知れません。

でも当人は全身全霊でそれに打ち込んでいるからこそ、

周りから称賛されたり羨まれたりするポジションまで到達できる。

そして自分のやっている事で、他者の役に立ったり、勇気づけたりすることが出来る。

マンガに出てくる、ヒーローの様な存在でしょうか。

 

世間で称賛されている経営者でも、個人的にお付き合いさせていただくと一人の人間です。

毎日起こるいろいろな事に悩まされ、将来の心配の種は尽きない。

それでも自分の力を信じて明日を切り開いて行き、外ではだれにでも明るく振舞う。

自分が組織を運営するという使命をもっていると、深く自覚しているからこそ

愚痴など言う気持ちが湧く隙もない。

経営者だけではなく、他の職業でも同じだと思います。

どんな業界でも、トップセールスマンは一見遊んでいるように売り上げを上げます。

顧客からの信頼がある上に、

もしくは信頼を得た社会的影響力の大きな人からの紹介からスタートするので、

今ならラグビーの話などを楽しそうにしながら高額契約をとったりしてしまいます。

頑張っても話さえ聞いてもらえない営業マンから見れば、

「楽しそう」「楽そう」

としか見えませんよね。

でもそこに至るまで、常人では及ばないほどの気配りと苦労を重ねていることが多いです。

その見えない部分こそ

「他者に頼られる技」

です。

 

とんでもない努力をするから、人ができないことが出来るようになり

人ができないことだから、努力していない人からは

「あの人はもともと特殊な能力を持っているんだ」

などと思われる。

人ができないことが出来るのだから、

「楽しそう」

に見える。これが

「遊んでいるように仕事をしている人」

の正体です。

修業を積む年代に人より苦労をし、結果としてその道を究めた人になる。

今は「パワハラ」という何だかあいまいな言葉で、

その修業を積むことがとても難しくなっている気がします。

だから40歳を超えても「自分探し」。

自分は探すものではなく作り上げるものです。全面的に自分の責任で。

今週の写真は、出張で行った岩手県遠野市で撮りました:

Photo_20191004102101

見たことのない土器でした。

なんと3000年前!西暦では紀元前です。

このほかにも石で作られた鋭利な道具も展示されており7万年前!!

周囲を山に囲まれた遠野市、今でも他所と違う文化レベルの高さを感じますが

古くから積み重ねられてきたものだと深く学びました。

今週も読んで下さりありがとうございました。

 

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